ある時、ソリューション事業本部に籍を置く矢野瑛二のもとに新たな仕事が舞い込んできた。
「生産管理システムの導入を検討されているお客様がいる。営業同行をお願いしたい」。エクスの商品を拡販している販売店から、営業活動の支援依頼がきたのだ。
この販売店とは付き合いが短く、実績はほとんどない。その上、営業担当は若手で事前情報もあまり持っていなかった。販売店の営業に同行する際は顔を合わせて事前打ち合わせをすることも珍しくないが、今回はそれも望めない。
矢野は、厳しい商談になることも覚悟した。
矢野が取り扱う商品は、生産管理システム『Factory-ONE 電脳工場』シリーズだ。中小企業が利用できるよう競合商品に比べ低価格を実現しているが、このシステムはメーカーが抱える課題をトータルに解決する大規模なもの。多様な機能を備えているため、受注額は1000万円を超える。
それだけに顧客にも企業体力が求められ、受注額の100倍の年商が必要とされているのだ。もちろん簡単に契約が決まる額ではなく、営業活動ではデモ画面による説明や事例の紹介など様々な工夫が必要になる。
今回は事前情報が少なかったが、矢野はできる限りの下調べを行って商談に挑むことにした。
数日後、初回訪問を行うことになった。
矢野は、この初回訪問が営業活動にとって最も大切だと考えている。第一印象によってその後の展開が大きく変わるからだ。
その上、今回の商談相手は専務や部長など大きな権限を持つ方々。
『Factory-ONE 電脳工場』の価値を正しく理解してもらえれば、商談が一気に進むこともありえる。
意気込んで商談に挑む矢野だったが、次第に難度の高い案件であると痛感させられることになった。「他の機能は必要ない。原価管理だけを円滑に行いたい」。専務がそう断言したからである。
『Factory-ONE 電脳工場』は、製造業の全体最適化を実現するシステムだ。原価管理の機能ももちろん備えているが、一部の機能だけを納品することはしていない。
一方、この企業が求めているのは原価だけにスポットを当てた部分最適化システム。価格帯も大きく異なり、その差を埋めるのは簡単ではない。「ハイスペックな電脳工場では、予算的に合わないか…」。
提携している他企業を紹介することも脳裏に浮かぶ。「お客様の要望と乖離した提案をしても意味がない」と考える矢野だけに、そう思わざるを得なかった。
「しかし、本当に原価に限定した機能だけで良いのだろうか?」。
一方、矢野はそうも考えた。原価管理を正確に行うためには、原価の実績収集や予定管理が欠かせない。
原価管理に限定したシステムにはそれらの情報を収集・予測する仕組みが組み込まれていないため、この企業の課題を解決することはできない可能性があったからだ。
そこで矢野は諦めずに現状ヒアリングを進め、また販売管理システム・生産管理システムを自らの目で確認させてもらうことにした。
「やはり、正しい原価情報が収集できていない」。
詳細な原価管理の仕組みが明らかになり、矢野はそう判断した。
この企業はエクセルによって原価を管理していたが、他の管理情報と連動していないこともあって二重・三重の入力が日常化していたのだ。今の状態では部分最適化システムを導入しても改善は見込めない。
矢野はこの企業が抱える根本的な課題を説明した上で言った。「お客様の最終企業課題を達成するためにもご提案させてください」。価格ネックという大きな問題は残っていたが、専務や部長は今後の本格的な提案を快諾してくれた。
初回訪問以降、矢野は何度もあのメーカーを訪問していた。
訪問頻度は週に1・2回。3ヵ月もの期間に及び、販売店の営業担当に許可を得て単独訪問も行った。
『Factory-ONE 電脳工場』をこの企業とって最適な仕様にカスタマイズするため、あらゆる情報を集めようとしたのだ。もちろん、頻繁な訪問はお客様企業に大きな手間をかけさせることになる。
しかし、それでも矢野は妥協しなかった。情報の精度はシステムの仕様や提案内容に影響を与えるため、最終的にはお客様に喜ばれるからである。また、大まかな仕様が決まったこの頃には、エンジニアの協力も得られるようになった。
エクスのエンジニアは、大きく分類すると3種類に分かれている。ひとつは、各企業への『Factory-ONE 電脳工場』導入を統括管理し、プロジェクトリーダーの役割を担うエンジニア(社内呼称はSE)。
次に、自社内で企業毎のカスタマイズ(プログラミング)を行うエンジニア。最後に、『Factory-ONE 電脳工場』に限らず新たな商品・機能を開発するエンジニアだ。矢野の営業活動を支援してくれるのは、主に導入を担当するエンジニア(SE)たち。
当該企業に最適な『Factory-ONE 電脳工場』の仕様が決定した際は、まず専門的な観点で見積もりを作成してくれる。もちろん、技術的な相談をすることも可能だ。
「御社の課題を解決するためには、一元化管理が必要です」。
提案資料や見積もりが揃い、矢野の本格的な提案が始まった。
提案資料にはこの企業が抱える課題を全て視覚化し、それに対応するため『Factory-ONE 電脳工場』のカスタマイズ仕様が書かれている。
目先の問題解決ではなく企業目標の達成を見据えた提案だけに、内容への評価は上々。専務や部長の理解は得られた。
しかし、まだまだ契約には至らない。当初予算の2倍に及ぶ価格だけに、専務の独断では決められないという。社長や会長を含めた経営陣全員を納得させる必要があったのだ。
この問題を乗り越える鍵となったのが、費用対効果。
導入コストは増えるものの、生産・販売のあらゆる工程を改善できることで長期的に利益が増えると説いたのだ。
また、お客様企業のことを真摯に考える矢野の姿勢を見て、専務や部長が味方になってくれたことも大きく影響した。
他経営陣を納得させるロジックを生み出すために相談を重ね、様々な便宜を図ってくれたのだ。
こうして、矢野の提案は正式に受け入れられることになった。導入コストは増えたが、この企業は「業務の改善ではなく、経営全体の改善ができること」に価値を見出してくれたのである。
この案件において、営業職である矢野の仕事はここで一旦終了だ。
今後は、導入を担当するエンジニアの主導で開発プロジェクトが進められていく。この企業の業務を詳細にヒアリングして正式な要件定義を行い、詳細設計をするのも導入エンジニアの役割だ。
そして導入エンジニアの管理下で、カスタマイズを行うエンジニアが開発作業を行い、オンリーワンの生産管理システムが生み出されていくことになる。この企業で『Factory-ONE 電脳工場』が稼働するまで少し時間が必要だが、信頼できる同僚に仕事を引き継げるため矢野に不安はなかった。
そして、1年後――。
「やっぱりあの時、電脳工場に決めて良かったよ」。久しぶりに対面した矢野に向かって専務と部長は言った。
この言葉は、矢野にとって何より嬉しいものだ。正式契約が決まった時に専務や部長は、矢野以上に喜んでくれた。
自分の提案を、会社をより良く導く内容だと確信してくれたのだ。そして今、その人たちが完成したシステムに触れて提案時以上に価値を感じてくれている。「常に製造業の発展とともに」を企業理念に掲げるエクスの社員として、これ以上誇らしい成果はない。
エクスに入社して5年。まだまだ自らを若手だと考えている矢野だが、こうして先輩たちに負けない成功体験をひとつ手に入れた。とはいえ、製造業界は多種多様。これから学ばなければならないことも多い。しかし、心から価値を感じてもらえる提案ができた経験は、どんな案件にも活かすことができるだろう。「製造業の発展」を目指し、矢野は今後も挑戦を続けていく。